一人になる強さ
一人になる強さ

深谷美枝(:牧師、明治学院大学教授)先生のFB投稿よりシェアしました。

日本の学校はみんな仲良く明るい子になることばかり勧める。私は小学校五六年の時の担任にリーダーシップを取れる発言力のある子になることを強制されて苦しんだ。
(そんなこと出来るわけ、ないじゃあないか。母に口答えは一切許されなかったんだ。過干渉の中で生きてきた子にリーダーシップなんて取れるかよ。)
しかし、確かにある一定協調性、集団への適応力は求められても、本当のところ、生きて死んでいくために必要なのは一人になる強さだ。
どんなに協調したって、いつかどこかでこの日本でははみ出る。はみ出さないまでも同調を求められて一人苦しむ。 そういう場合でなくても、単身で生きる時間は人によって長短はあれ必ずあるし、一人で死ななくてはならない場合も多い。
家族の中で生活していても、大抵の高齢者は孤独感を感じている。
一人になる強さ、孤独力みたいなものがきちんと評価され醸成されないと、生き抜けない。
人は一人では生きられないが、一人になれなくては生き抜けないのだ。
昨日横浜校舎でメッセージしたのはこの先の話である。
孤独力は神から与えられる全面的な肯定から来る。
神の国と神の義を求めなさい。つまり、神様が良しとしてくださるあり方を求める。神からYesを投げられて生きる。
誰がなんと言おうと、神がよし、としてくださる。それを基本にして生きる。
それがただ一つの孤独に処する道である。自分とだけいなくてはならない孤独を滅する方法である。
礼拝メッセージ 22:18 comments(0)
今朝の礼拝メッセージ
「親という役割」
ヨハネによる福音書2章1〜12節

 本日は「母の日」です。母の日は、教会から始まりました。それだけ、親を敬い、親を思うということを、聖書は大切にしているのです。
 それでは、親とはどういう役割をすべきなのでしょうか。

1.神の前に従うものである。
 聖書における「親」とは、信仰の模範です。マリヤはイエス様の言われたことについて、「従う姿勢」をもって対応しました。それは、人間同士の親子関係を超えて、「神に従う」ことを表現しているのです。

2.信仰のリーダーシップをとる者である。
 親は、家族においてリーダーシップをとる者です。それは、教会の家族、霊の家族においても言えることです。私たちは、イエス様の声を聞き続け、霊的に成熟し、リーダーシップをとって行くことができるようになることが大切なのです。

3.次の親を育てるものである。
 親は、いずれ年老いて行くものです。そして、次の世代が親になることができるように導くものなのです。絶えず、その視点を置いておくことが、成熟した親なのです。

礼拝メッセージ 22:26 comments(0)
今朝のメッセージ
 「豊作の秘訣2」
聖書箇所 マタイによる福音書13章18〜23節
 収穫は、種を蒔かないことには始まりません。これは、農業の基本
といってもいいでしょう。
 私たちの人生も、主から与えられた種をいかに育てるか、ということに尽きるのです。

1.種をもらう。
 種は、主が私たちに一方的な恵みとして与えてくださいます。しかし、育成方法については、私たちに任せられています。種を成長させていくことが、私たちの責任なのです。

2.良い土地を作る。
 種が成長するために、土地の役割は絶対的に重要です。キリストの恵みを生かすか否か。それは、私たちの受け止め方にかかっているといっていいでしょう。神のみ言葉に育まれていくとき、み言葉を礎に行動していくことができます。これが、「み言葉に生きる」ということなのです。


3.結果は、主に委ねる。
 収穫の結果は、主だけがご存知です。30倍、60倍、100倍といった結果は、あなたの能力ではなく、神があなたに任せた役割なのです。

礼拝メッセージ 20:51 comments(0)
今朝の礼拝メッセージ
 「最高の人生の見つけ方」
コリントの信徒への手紙第二 5章15節

 数年前に「最高の人生の見つけ方」という映画が上映され好評でした。私たちは、最高の人生をどのように見つけることができるでしょうか。答えは聖書にあります。

1.キッズブラウン、K兄の証し。
 K兄は30代でバリバリの営業マンであった時に救われました。それは強烈な聖霊の注ぎによる神体験でした。以来、兄弟は祈った願いがすべて叶い、順調な生活の中に徐々に傲慢となってしまった中で、悔い改め、ただ主の栄光を現すことだけが彼の願いとなったそうです。以来、神の喜ばれることをする、それが生活の中心となりました。

2.主に喜ばれたいという思いはどこから来るのか。
 ペトロは3度、イエス様を拒むという失敗をし、自分がいかに弱いかを思い知りました。深い失望にあった彼を立ち直ったのは、復活の主の言葉でした。イエス様は「フィレオ(ただ感情で好む)」としか答えられないペトロの所まで降り、ありのままのペトロを愛して下さったのです。

3.主が喜ばれることは何か、が最高の人生に導く。
 私たちはまず、自分は何もできないと認めなければなりません。それは、主が喜ぶことは何かを見つけることです。頑張るのではなく、神の恵みに歩むことです。
主のために生きるようになるとは、主の愛に生きることであり、それは、主が愛されたように、出会うすべての人の幸せを願って行動することなのです。    
主の愛を運ぶ行動、すなわち伝道のために生きる人生を、最高の人生を歩みましょう!
礼拝メッセージ 21:00 comments(0)
今朝の礼拝メッセージ。
 「見捨てる神」
マタイによる福音書
24章45〜53節

「私たちは、神の前で、神と共に、神なしに生きる」と言ったボンヘッファーの言葉があります。
 十字架上でのイエスの言葉こそ、その意味を具体的にあらわしているのではないでしょうか。

1.イエスは、苦しまれた。
 イエスは、父なる神の計画を知っており、十字架に向かわれました。それは苦しみの道であったことも知っていたでしょう。ですから、計画をしっていて、なお「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」とおっしゃったのです。

2.イエスの死は、神と人との関係を回復させた。
 イエスが十字架で死なれたとき、神殿の垂れ幕が裂けたことが記されています。これは、いままで神と人との直接の関係を持つことができないことの象徴でした。いま、この垂れ幕が裂け、神と人とが直接に関係を持つことができるようになったのです。


 私たちは、直接的に神の介入を感じないときがあるかもしれません。しかし、それに一喜一憂する信仰ではいけません。神がおられることを当然の前提にして、今を生きることが重要なのです。

礼拝メッセージ 14:33 comments(0)
今朝の礼拝メッセージ
 「天の祝福に生きる」
  エフェソの信徒への手紙1章1〜14節

 エフェソ人への手紙は、使徒パウロが西暦62頃に、ローマの獄中で書き、それを弟子のテキコがエフェソ教会に届けました。 
 最初に恵みと平安の祈りがあり、続いて三位一体なる神の祝福が三つ述べられ、そのつど神の栄光を賛美しています。

1.父なる神による選びの祝福 3-6節
 私たちは、神が天地を創造される前から、すでに神の御心の中で選ばれていたのです。驚くべきことに、私たちは、この世に存在する前から、すでに神に愛されていたのです。この神の選びを知ることは、人生に存在意義を与えてくれます。

2.キリストによる救いの祝福 7-12節
 救いとは、あがないであり、それは奴隷が買い戻されて、解放されることであり、さらに罪の許しが与えられて、神の子としての身分が回復されたのです。そして新しい世界観に生きられます。それは神と永遠と命を知ることの知恵であり、この世が、神の御心のなかにおかれていることを理解するのです。

3.聖霊による救いの保証する祝福 12-14節
 聖霊の証印は神のものとされたことを意味します。あがなわれて、神の国を継ぐことの保証とされたのです。聖霊により、心のうちに復活のキリストが現されました。私たちは、キリストと共に天の王座についた者のように(2:6節)、勝利者として生きるのです。



礼拝メッセージ 20:08 comments(0)
今朝の礼拝メッセージ
 「神の時を生きる」
  ヨハネによる福音書12章20〜26節

 私たちにとって<時>とはどのような意味をもつでしょうか。あなたの<時>に、神の<時>が交わるとき、あなたはどう応答するのでしょうか。

1.「時」の意味
 古代多神教の人々にとって<時>は、「神代」と「人代」の二つがありました。神代が人代を意味付けるためです。一方、古代イスラエルの民は、唯一独特の概念を持っていました。時は、神が与える、というものです。歴史とは「神が人間にどう働きかけて来たか」を明らかにするものでした。イエス様が「時が来た。」と宣言したことは、今の私たちの時代への言葉でもあります。

2.一粒の麦として死ぬことの意味
 「イエスの時」とは、十字架での犠牲です。しかし同時に救いの成就であり、私たちと共に生きる聖霊に繋がります。自分の命を愛する者は命を失います。自我(欲求)だけに生きることは、自己(アイデンティティ)を見失うことになるからです。私たちは何をしたいかではなく、何者であるか、に土台を置いて生きることを主から迫られているのです。

3.神の時を生きる
 イエスは「私のいるところ」で仕えることを招いています。「いる」とは単に一緒ということでなく、ダイナミックな活動を意味します。 ある人はこう証しました。「私は、人生において、幸運などというものはなく、すべては神の愛や神のみわざなのだと信じています。」 神の時を、共に働かれる神と歩んでいきましょう。
礼拝メッセージ 00:10 comments(0)
今朝の礼拝メッセージ
 「主の必要に応えよう」
マルコによる福音書14章3〜9節

 私たちは、何のために時間や経済を捧げ、行動するのでしょうか?本日の聖書箇所は、私たちにそのことを語りかけて来ます。

1.それは、義務感ではありません
 神が私たちに行動を起こさせる原動力は、義務感ではありません。「イエス様に喜んでいただきたい」という、純粋な神への思いから来る者なのです。

2.それは、損得を考えるものではありません
 純粋な思いからくる行動は、損得の域を超えます。損得で考えるなら、弟子たちの意見した「香油を売った」ほうが有益でしょう。しかし、そのような思いですべてを判断すれば、私たちの信仰を行き詰まってしまいます。なぜなら、人への愛は必ずしも報われるとは限らないからです。

3.それは、神への明け渡しである
 私たちは、神に自分自身を明け渡すことによって、義務感や、損得による判断から解放され、神にのみ目を向け行動することができるのです。
 
礼拝メッセージ 21:27 comments(0)
今朝の礼拝メッセージ
「主を受け入れるか、拒絶するか」
  マルコによる福音書12章1〜12節

 「ぶどう園と農夫」のたとえで、イエスがご自身の死について公然と明確に語るのは、この時限りです。

1.イエスへの問いかけ〜神殿での議論〜
 イエスに、ユダヤ教の特権階級の人々が来て「何の権威でこのようなことをするのか」と問いかけます。その後、イエスは一つの譬え話をしました。
 ある人(=父なる神)が、ぶどう園(=イスラエル)を 造り、農夫たち(=ユダヤ教の特権階級)に預けます。収穫の時期が来て、僕(=旧約の預言者)を派遣しますが、農夫たちは横領し暴行を繰り返します。最後に、愛する息子(=イエス)を遣わしますが、彼らは理不尽にも、殺害してしまいます…。

2.イエスからの警告〜神からの賜物をむさぼる罪〜
 イエス様は、譬えを通して、ユダヤ教の特権階級であることに甘んじて利益を不正に得ている彼らに対して、神の裁きがあることを、厳しく非難し警告したのです。この後にもイエスとの対立は繰り返され、その度に主が勝利します。けれども、彼らはイエスを受け入れませんでした。

3.イエスからの問い〜拒絶するか、受け入れるか〜
 それは、教会の中にもあることです。「あなたは聖書を読んだことがないのか」。み言葉なる主を受け入れているか、日々、問われているのです。御子の十字架での殺害は、理不尽で悲惨でした。神でありながら謙遜となり、十字架による贖いを全うしたイエスを、私たちは信じて受け入れるのです。

礼拝メッセージ 19:10 comments(0)
今朝の礼拝メッセージ
   「主と共に生きる喜び」
マルコによる福音書2章18〜22節

 受難節(レント)に入りました。主イエスは、私たちの罪の贖いのために、十字架に向かって行くことになります。
 断食について、私たちはどのように理解しているでしょうか。キリスト教会は、規定としての断食を定めてはいませんが、時として断食をして祈ることを奨励している場合はあります。
 本日の聖書箇所における問答は、規定として断食することよりも、主とともにある食事を喜ぶことこそ大切であるということを告げています。


1.主は、取り去られたのち、よみがえられた。
 このよみがえりは、永遠のよみがえりです。そして、今日まで聖霊を通して私たちは主イエスとともにいるのです。

2.私たちは、主とともに生きている。
 いまも生きて、天におられる主イエスとともに私たちも生きている、という感覚をもっているでしょうか。
 この感覚は、私たちの信仰に喜びの感情を生み出すのです。

3.禁欲の感覚より、主にある自由を喜ぶ感覚。
 私たちは、聖書を規定と捉えるのではなく、主と歩む喜びの指針として受け止めること。これがクリスチャンにとっての恵みの生き方なのです。

礼拝メッセージ 21:23 comments(0)
1/7 >>
バイブルとワンコと私
http://chapelglory.com
宇都宮グローリーチャーチ牧師館の住人は、2人+3頭。
お茶しながらのんびりと読んでいってくださいな。
気軽にコメントもどうぞ。
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